なかまくらです。
サークルでお芝居を書いていた時、
異端者になろうと常に過ごしていました。
ちょっとラノベっぽいものを書いてみたり、
よく分からない系の物語を書いてみたり、
よく分かる物語を書いてみたり、
何がしたかったかって言われると、
異端者になりたかった、としか言えないのです。
誰かと違うということは目を引くということです。
それでも、私は、ちょっと電波系で、ちょっとキャラクターがラノベっぽい
立ち上がり方をしてくる物語を書くのが一番楽しかったかな、あの頃は。
11月の初めに、大学では文化祭が行われますが、
土曜日は仕事だし、中旬には、広島に行く用事がありますし、
なにより、観てない身でどうこう言う資格もないのでしょうが、
あっ、これはっ! と、なりそうな気があまりしないのですよね・・・。
広島に行かなくても見られそうかな? どこかの劇団がやっていそうだな。
そう思うと、
付加価値を与えていたのはやっぱり、一緒にお芝居をしていた後輩が、
やっていることだったのかなぁって、そんな風に思ったりします。
さて、
異端者でなければならなかったあの頃のほうが、目標がはっきりとしていたな。
こうでないものと言うのを書くほうが、私には向いているのかもしれませんね。
[1回]
なかまくらです。
この前書いた小説を読んで思ったんですが、
私の書くお話しって、1人称が多いんだなぁと。
小説だけじゃなくて、戯曲もそう。
1人称の視点を大事に描いてる。
周りの見えることも、だいたい、主人公の目を通した世界を書いている気がする。
そうすると、その人に感情移入できると、なるほどなぁと思える出来になるわけですが、
そうでなかったらどう言うように見えるんでしょうか。
彼を取り囲むトゥルーマンショーのようにみえるんでしょうか?
1人称で大成功を収めているのは、実はエヴァンゲリオンだと思うんですよね。
あれは(もちろん、別の所でも物語は進行しますが・・・)、
基本的に、シンジくんが知ることによって視聴者にも真実が明らかになるようになっていて、
そうすると、基本的に、ああこれがあっちでおこってるから、次に、ああなるかな?
という予想ができない。謎に包まれた世界を一緒に進んでいかないといけない。
3人称でかくと、人間同士のすれちがいを、外側から見ることができます。
だから、やきもきしたりとか、
その、物語の悲劇さ、その中で必死に生きようとする他人に胸を打たれるわけです。
ロミオとジュリエットとかね。
さあ、どちらがいい?
と言われたら、私は1人称を大切にする作家になりたいかなぁ。
[0回]
なかまくらです。
エポックメーキングって言葉がありますよね。
他のものに影響を与える革新的な作品の事です。
例えば、自分が主人公になれるゲーム。ドラクエの登場だとか。
私には今、エポックメーキング的な作品が欲しいのだと思います。
別に世間に影響を与えるような作品じゃなくていいんですよ。
ただ、今の自分がどうやって創作をしていったらいいのかということを、
示してくれるような道しるべとなるような作品が欲しい。
たぶんそういうことなんですよね。
[1回]
ちょっと今日は真面目な話。
SNSというやつに私も参加していますが、
あれは、インターネットを衰退させるシステムであると思う。
SNSというやつは、とにかく簡単に交流できるように作られていると思う。
mixiもイイネボタンが付きだしたころから怪しくなり始めた気がする。
とりあえず、イイネ、って押しておく。
twitterもとりあえず、リツイートする。お気に入りに登録する。
簡単だが、・・・悪く言えば、実に安易だ。
アクションするほうは、リアクションを求めて行動することが多いが、
簡単に呟けるそれを果たしてコンテンツと呼べるだろうか?
ひとつひとつの呟きをコンテンツとして、数千人が集まるような、
そんな大きなコンテンツになっている所謂「面白いつぶやきをするユーザー」が
沢山のユーザーから安易にフォローされている状態。
twitterは、何かを論じるにはどうしたって、文字数が足りず、適した媒体ではない。
どうだろう。ブログを書いたり、ホームページに記事をあげるというのは、
もう少し労力が必要で、ある程度の分量とある程度の考えがないとなかなか書けない。
(もちろんそうではないブログも多数あるわけだが・・・)
すると、ブログを書くほうが、ちょっとだけ、
ツイッターでつぶやくよりは投稿者に対するハードルが高い分、
コンテンツに対する信頼度が高いのではないかと思う。
ところが、ブログはここ最近明らかに減ってきているように感じる。
(少なくとも私の周りではそうだ)
それは、ブログやホームページというシステムが、投稿者のアクションだけでなく、
読者にとってもリアクションについても、ハードルが高いからであろう。
思い立って更新しても、なにも反応がないのでは、
コンテンツを生み出すものが減って行ってしまう。
今、個人が作り出してきていた、そういったインターネット上のコンテンツが、
減少しているのではないかと私は思う。
個人の発信するコンテンツは創造性を失ってきている。
粗製濫造がひたすら繰り返され、
区別のできない無数のコンテンツの中に埋もれて浮かび上がってくることができない。
現在はそんな状況ではないかと思うわけです。
***
なんで急にそんな話だったかと言いますと、
この前、広島で行われたお芝居の感想を、誰も、ブログに書かないみたいだからさ。
これも、コンテンツの一つだったんだなぁって、思いまして。
おわり。
[1回]
なかまくらです。
私の最近の作品を振り返ってみると、
象徴に頼りすぎている感がありますね。
象徴で、一本の物語を何とかしようとしている。
ある行動を神に例えたり、ロボット、宇宙人などなどにたとえようとする。
やめにしないか? 少なくとも逆にしないか?
物語の一部として出さないならば、
それはワンアイディアから逃れようのない物語。
冒頭にそれを持ってきてしまった時点で、
それが最大の物語の大きさと定義されてしまう窮屈な物語。
逆にしないか?
物語の中に象徴として出てくるようにすれば、
その外側に物語の世界は広がっていくのだ。
そういう風に物語を構成して、
想像力でどこまでも広がっていく物語にするのもまたいい。
ただ、茫洋な物語はダメだ。
ちゃんと伝えることを塔のように突き立てて、
その外側は広がっていて、どこからでも目指せるような、
そんな物語がいい。
[1回]