なかまくらです。
お久しぶりですね。小説です。
今、どうしてもゾンビを書きたい、と言ったのは、大学生3年生のときでしたか。
当時、武市さんというサークルの先輩がおりまして、その方に、絶対書きたい!
と言って、何を書きたいの? と言われて、実は何にも決まってないけど、
襲ってくるゾンビが書きたかったあのころから、随分と時は流れましたが、
やっと形になりました!
どうぞ。
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「発酵人間の噂」
作・なかまくら
―――――変化がよいものとは限らない
「・・・久しぶり。生きてる?」
「お前の目が腐っていなければな・・・。この通りだ」
それは、確かに記憶の中にある飢杉の声や手ぶりだった。偶然入った建物だった。
「いつここに?」
「ついさっきだよ」
「そうなの、偶ぜ・・・」 志田弥美が途中で言葉を区切る。
二人は呼吸をひそめ、物音を探る。
「今、音がしたような・・・」
「2階・・・だったな。俺が上を見てくる。志田は1階を頼む」
二人はテーブルに立てかけてあったそれぞれの得物を握って、慎重に歩を進める。キッチンに入る間仕切りの引き戸の隣が階段になっていて、カーブを描くその構造が2階の様子を隠していた。飢杉が扉を開けるように志田弥美に顔で合図をし、鉄パイプを緩く握りなおして構える。それを見やって、扉を少しだけ開け、それから一気に開いた。
「何もないわ」
「そのようだ。では、俺は2階を」
「気を付けて」
「互いにな」
数分後、二人はダイニングテーブルに戻っていた。
「無事で何より」「・・・ああ」
2年前、しばらく戻らないとそれだけのメッセージを志田弥美に送りつけてきて、飢杉は娘を連れて街から消えた。そして、ほどなくして、世界は腐り始めた。
初めに起きたのは、果実の落下だった。品種改良された蜜柑や実芭蕉など糖度の高い果実が一斉に落下した。収穫はまだ先のはずだったが、急速に成熟したのだ。そして野菜が続いた。同時に人々が感じていたのは、冷蔵していた食品の傷みやすさであった。何かが起こっている、と気付いた頃には、古い防腐剤を使っている25年以上前の木造家屋が次々と倒壊をはじめ、次にアメーバを構造のモデルとして開発されたケイ素生物を混ぜ込んだコンクリートで作られたトンネルや橋が腐り始めていた。空気中に含まれる何かであるという論文が世界のどこかで受理されたとニュースで聞いた。海生生物に変化が見られなかったことを根拠にしていた。
「この街で最初に動物に異変が起こったのは、犬だったわ。犬が小動物を片っ端から襲ったの」 家のすべての入り口の戸締りを確認し終えた飢杉と志田弥美は、ダイニングのテーブルについた。ビーフシチューが一皿置かれている。
「しかも、なぜか子どもばかりを狙うの・・・。まあ、人間も一緒ね」
「犬から始まった動物の腐食は、半年もかからずに、人間の腐食に到達した・・・」
「そうよ、信じられない光景だった。昨日まで愛してやまなかった我が子の腕を突然齧り出す母親、白目をむいて掴みかかってくる父親をバットで殴り飛ばす息子・・・。悪夢だったわ」
食器棚から金属のスプーンを取り出し、掬ってみる。
「食べてもいい? 私、ペコペコで・・・」
「ああ・・・」
「ありがたくいただくわ」
「うまいか・・・?」
「ええ。・・・あなたは、この2年間どこにいたの?」
「ああ、世界中で症例を当たっていた。最初は、世界で初めて都市人口が1億を越えた積層都市・彫狸だった。その患者たちはどう見てもおかしかった。欲、というものが極端に偏ってしまっていた」
「欲? おなかが減ったとか、眠りたい、とか?」
「いや、個人によるんだが、ある人は人に勝りたいとか、そういう競争欲を。またある人は、寒かったら温かいものを奪ってでも享受したい、という生存欲を失っていた」
「究極の善人ってこと?」
「ところが、そうばかりじゃないんだ。人を陥れたり、傷つけたりする欲求に際限なく駆り立てられる人もいた。そして、第三の症例は、何かの光にとらわれ続ける人」
「・・・え?」
「その眼には何が見えていたんだろうな。どんな手段を使っても、そこから視線を外させることはできなかった。この症例を我々はイデアと呼ぶことにした」
「プラトンの? 完全な真実? ・・・現実は真実の影であり、我々は影を見ているに過ぎないとかっていう・・・あれ?」
「ああ、そういうことなんじゃないかって、思ったんだよ」
「そしてほどなく、世界が腐る事変が起こった・・・」
ビーフシチューに伸びる手はいつしか止まっていた。志田弥美には世界の真実に迫っている確信があったのだ。傍目から見ればそれこそ、イデアを求める患者たちのように・・・。
「症例イデアは、この現象に関係があるの?」
「当初、人には感染しないだろう、といわれていたから、初めはおかしなことが次々起こる大変な時代が来たものだ・・・なんて思っていた。だが、向こうさんの研究結果を聞けば不可思議な話だというじゃないか」
「そうね、不可思議な感染症よ。そもそも、感染者からウイルスも細菌もいまだに見つかっていない。だから、今に及んでも、そもそも感染症など存在しないはずなのだ、と言い出す専門家がいる始末だから」
「そう、それこそが不可思議な共通点だったんだ。・・・すまない、トイレ休憩を取ろう。君も冷める前に食べてしまってくれ」
そう言って、飢杉は席を立って、2階へと上がっていった。志田弥美は、一つ息をつき、ビーフシチューを口に運ぶ。まるで誰かが訪れるのを知っていたかのように、1つだけ用意された食事。志田弥美の手が止まる。トイレは1階にあったが、2階にもあったのだろうか。それとも他に何か・・・。
「待って・・・」
「なんだ?」
独り言のつもりで言った言葉に、戻ってきた飢杉が返事をする。
おかしいわ、と言おうとして、喉の奥で急ブレーキをかける。
「・・・あなたの分はあるの? 貴重な食糧だもの、やっぱり悪いわ」 志田弥美は声が震えるのを必死に抑えた。
「今更、渡されても口を付ける気にはならないよ」 飢杉は笑う。その笑みに先ほどまでとは違う、言いようのない気持ち悪さを感じる。ビーフシチューが絵の具のようにカラフルな成分を内包しているように、胃の中でグルグルと回っているようだった。
「ねぇ、娘さんは・・・?」 志田弥美がそう尋ねると、
「キャンプに置いてきている」 飢杉はそう答えた。
「じゃあ、早く戻らないとね・・・一緒に行ってもいい? 久しぶりに会いたいな」
「いや、すまないが・・・」 飢杉は申し訳なさそうではない顔でそう言った。どこのキャンプの食糧事情もギリギリだったし、人が集まるところに、感染者も集まってくる。分かっている。人の管理は厳しかった。分かっている。
「ねぇ、哲学的ゾンビって言葉があるじゃない」 志田弥美はつばを飲み込んだ。
「ああ・・・」
「さっきの話の続きなんだけど・・・」
「娘の・・・?」
「いいえ、症例イデアの患者たちの話。私の命のあるうちに、教えて。あなたがどこまで掴んでいるのか。なんのために、あの時街からいなくなったのか」
「・・・・・・ああ」
「意識(クオリア)のない人間を哲学的ゾンビと言うわけだけど、症例イデアの患者たちはそういう存在なんじゃないかって、・・・私思ったの。そして、2つの間には共通点がある。つまり今、起きているこの現象もその延長線上にあるって・・・そういうこと」
「そうだ、いいぞ、目覚ましい進歩だ」 飢杉の声はひどく穏やかで、手にはいつからか鉄パイプが握られていた。随分と緩く握られている。
「だから、この腐食現象には確かに、ウイルスも細菌も関係がなくて、世界を蝕む哲学的な病変だということ。私たちに、対抗する科学的手段は存在しないということ・・・」
「・・・そういうことなんだ」
2階から確かな物音がする。気のせいではない、さっきからずっとそうだった。いや、初めからそうだったかもしれない。
「あなたは、いったい誰なの!?」 志田弥美は叫びをあげて、得物を掴んでテーブルから飛び退った。手には刃渡り10cmほどの銀のダガーナイフ。投げることもできる。どこかの酔狂なお金持ちが作らせたものだろう。大きな屋敷から拝借して以来、志田の命を守り続けてきた武器。銀色に光る刀身に飢杉の姿が映っていた。
「おしゃべりが過ぎたようだ。娘が起きてしまった。今が大事な時なんだ・・・。悪いがもうあまり君の相手をしていられない」
「・・・雄弁は銀、毒を払ったりもするらしいわ。おかげでなぜ私がこれまで運良く生き延びてきたのか少しだけ得心がいった。ここでも、効力を発揮してくれると嬉しいけど」
志田は、そう言いながら、出口を目指してじりじりと位置取りをする。その様子を見ていた飢杉はしばし思案した顔をして、何かを志田に放って寄越した。
「なに、これ・・・何の薬?」
「それは、シチューに含まれる・・・君にとっては毒として作用する物質を解毒する薬だ。・・・だがな、志田、俺はこの腐食現象に対する答えを見つけようとしている。娘がそのヒントになると考えている」
「娘さんが・・・? へぇ、良かったわね」
「腐食とは腐ることだ。だがな、志田。数えればきりがない。醤油、味噌、チーズ、ヨーグルト・・・。我々は古くから知っていた。利用してきたんだ、腐るという現象を」
「それは腐っているわけじゃない。発酵というのよ」
「人がそう呼んだ。そういう変化の仕方を知っていた。我々はやがて腐る。新しい血肉を生きている限り取り込み続けても、やがて訪れる腐食から逃れることはできない。ならば・・・、一緒に来ないか・・・」
その顔を見た瞬間、志田弥美は叫んでいた。
「私は生きる! 生き延びるの!」
志田弥美は薬を蹴り上げて掴み取ると、そのまま出口へと走った。外へ出ると、遠くの方に意識(クオリア)を失った腐食人間が彷徨っているのが見えた。回避してキャンプへと戻るルートをはじき出す脳の片隅に、飢杉の表情がこびり付いていた。最後に見たその顔は、志田弥美にとって忘れられない顔となった。
症例をイデアと呼称した理由も分かる気がした。