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なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)

舞台「鉄人28号」見ました(DVD)

なかまくらです。

舞台「鉄人28号」見ました(DVD)。



アニメ監督で有名な、押井守の手がけた舞台ということで、

・・・いったいどうなることやら(良くも悪くも)。

と思いつつ、DVDを買っちゃったわけです。

押井ファンとしては結局見るしかないのですよ。


さて。

戦後の日本。東京オリンピックを控える日本では、

大規模な野犬狩りがされていた。

金田正太郎は、鉄人28号を動かすことのできる少年だ。

正太郎は、野犬の処分場を襲撃するという人狼党から、

処分場を防衛するために駆け付けるが、

野犬を処分し、新しい時代を迎えようとする大人たちに疑問を覚えていた。

野犬は生まれたことに罪があるのか?

新しい時代を迎えるために、罪なき者の犠牲はつきものなのか、それが正義なのか。

そう迷う正太郎少年は、人狼党に襲撃とともにさらわれてしまう。

さらわれた正太郎少年は、救出されてきた女立喰師の「けつねころっけのお銀」と出会う。

お銀は、これからは自分のためだけに生きるんだよ、と言い残し姿を消す。

科学がもたらす正義、新しい時代を作るべきなのか、

それとも、罪なき犠牲のない正義を生きるべきなのか、

正太郎少年は、迷いの中、脱出し、鉄人28号の元へ戻る。

彼は、東京オリンピックで5輪を描くはずだったブルーインパルスの代わりに、

鉄人で5輪を描く。

そして、そのまま姿を消した。


というお話でした。


序盤は、ひたすら犬の話をしていました。

犬というのは何かの隠語で、本当は政治犯か何かを追っているんだと思っていましたが、

本当に犬でした(笑

中盤から、新しい時代を迎えようと動く時代の中で、

圧殺されようとしている者たちが現れ、その話を聞いて、

正義と信じていたものが揺れ動く正太郎少年の葛藤が描かれ、面白くなってきました。

「(海の向こうに見える東京を指して)あそこに何が見える?」との問いに

「未来が・・・」と正太郎少年が答え、「私には見えない!」と返す。

このやりとりが一番グッときました。

未来が見えないからこそ、こうなっているんだ。その怒りが彼を突き動かしているんだ。

そんな感情が流れてきました。

最後に正太郎少年はオリンピックの開会式へ向けて出発した後、疾走するわけですが、

ずっと時間がたってから、かつてのお銀のような格好で現れます。

この意味はどう解釈したらいいのか、難しい。

もともと、正太郎とお銀は一人二役だったので、そういう意図があったのでしょうが、

確固たる正義のもとに動くのではなくて、

野犬のような、純粋無垢で、イノセンスでありながら、

けれども牙をむき、人を傷つけるためにおそれられ、処分されるような、

そういう存在に正太郎という男と鉄人28号を留めおきたかったのだと思う。

石ノ森章太郎の「キカイダー」のラストで、キカイダーが服従回路(イエッサー)を埋め込まれ、

正義と悪の心を手にして人間に近づいたように、

虚構の中の存在であった鉄人28号の操縦者、金田正太郎という人間が、

ラストシーンでは、オリンピックの開会式を陰で成功に導きながらも、

脚光を浴びることなく、メディアによって虚構を立ち上げられることなく、

人間臭く生きている姿を描いたのかもしれない、と思うのでした。


いろいろと想像が膨らんで、押井ファンとしては、面白いお芝居でした。





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「RITA&RICO(リタとリコ) ~「セチュアンの善人」より~」観ました。

なかまくらです。

少し前のこと。

「RITA&RICO(リタとリコ) ~「セチュアンの善人」より~」観ました。

静岡県の県民劇団SPACの作品。

ベルトルト・ブレヒトの「セチュアンの善人」を下敷きに描いた作品。

貧しいリタは、あるとき、地上に降りてきて様子を見ていた、神様に良いことをする。

すると、リタはたくさんのお金をもらって、それを元手に商売を始める。

ところが、そこにはたくさんの貧しい人たちが集まってきて・・・

リタは、自分が困ってしまうくらい、貧しい人たちを助けてしまう。

そして、リタは、リコという従妹の設定の、変装したもう一人の自分を作り出す。

リコは、利己的であり、言いたいことはすべていう。

リタは困るたびに、リコに頼るようになる。

リタは、飛行士を目指す男と恋に落ち、

金策に困った自分を助けてくれた人を裏切ってまで、飛行士を助けてしまう。

ここで、リコとなって飛行士を裏切って、

周りの人を裏切って、今あるお金で工場を作れば、

貧しい人たちをこき使って、お金持ちとなって、利己的な人間となって、

周りの人をみんな不幸にして、自分は裕福な暮らしができる。

リタは、リコになることを拒む。

もう、リコにはなりたくない、と悲しむのだが、

リタは泣きながら、リコへとなっていくのだった。


・・・というお話でした。

なかなかにしんどいお話でしたが、同時にすごく心をグラグラさせるお話でした。

自分のためだけに生きたら、きっと周りは不幸になってしまうから、

それぞれが周りに気を使いながら、周りを助けながら生きているでしょう。

けれども、本当は自分が一番かわいいのは当たり前で、

その心の葛藤の中で、上手に折り合いをつけて生きていこうとする。

けれども、本当に苦しくなったり、本当に貧しくなったとき、

きっと、我々は、リコになってしまうんだろうな、と。

それはいけないことだと知りつつも、それを受け入れるんだろうな、と

そんなことを思うお芝居でした。

ちなみに、「セチュアンの善人」の原作では、リコ(役名は原作では違う)が、

工場を建てて、周りをみんな不幸にしてしまうところまで描かれているそう。

観たくないような気もしますね(笑

おわり。





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「終わりのない」観ました。

なかまくらです。

「終わりのない」観てきました。@世田谷パブリックシアター(11/11観劇)



28連勤のさなか、平日の午後、年休で少しだけ早く仕事を抜け出し、

東京まで行ってきました!

イキウメの作・演出の前川知大が新作を上演するというので、これは行くしかない、と。

感想を書くのがこんなにも遅くなったのは、仕事が忙しかったこともありますが、

それだけではないのです。

観ている時の感想・・・「あちゃー、これはやっちまった! 面白くないぞ・・・。」

今の感想・・・「なんだこれ、・・・なんなんだ、これ。」

さて、あらすじです。

すごい父親とすごい母親の間に生まれた悠理は、引きこもりになった。

将来の夢もなく、学校にもいかない。

心配してくれる幼馴染もいつの間にか、自分の進路のことを考えている。

悠理を心配した両親は、幼馴染も誘ってキャンプに出掛ける。

そこで、悠理は湖に潜り、おぼれてしまう。

おぼれて、気が付くと、宇宙船の中だった。地球は滅び、新しい星を探しているという。

ユーリは、調査隊のクルーの一人だという。

しかし、ユーリには、地球での記憶がはっきりとあるのだ。

アンドロイドのダンや、仲間だという男たちから話を聞くうちに、

オリジナルのユーリは惑星調査の最中に死亡し、今のユーリの肉体はクローンだということが

わかる。そのクローンに、おぼれて意識を失った悠理が入り込んだのだと推測に過ぎないが。

何体目かのクローンのユーリは、混乱をきたし、宇宙空間に排出処分される。

ユーリはどこかの惑星で目を覚ます。

そこには、無意識の集合体のような人型の生命たちが暮らしていた。

そして、かつてそこにたどり着いた、地球人が一人、暮らしていた。

地球人は、かつて、生命の暮らせる星を探して、ここまで来たのだが、帰れなくなってしまった。

意識だけで行き来ができるユーリに、自分のたどり着いたことを誰かに伝えてほしい、

と願う。ユーリは、原住民の戦いに巻き込まれてしまう・・・。

その世界を行き来するうちに、悠理は、人類が迎えるだろう様々な未来を感じる。

そして、自分の両親が自分勝手に決めてやろうとしてきたこと、やろうとしていることの

意味が分かる。

キャンプ場に戻った悠理は、一緒にキャンプに来てくれた皆を励ます。


・・・というお話でした。

つまり、よくわからない。話としてはそういうことなんでしょうが、

つまり、どういうことだったか、と言われると、よくわからない。

自分の生き方に悩む悠理が成長する物語でいいのか、と言われると、

そうではないと思う・・・というか、

前川さんだからこそ、そうではないのではないか、という期待がある。

では、何なのか。

この物語は、ホメロスの抒情詩「オデュッセイア」を下地にしたそうです。

オデュッセイアは、ギリシャの4大悲劇よりも前の時代の戯曲で、

英雄オデュッセイアが、戦に行き、帰ってくる話です。

この物語も悠理がキャンプ場からスタートし、未来の宇宙をめぐり、帰ってくる話。

ん?

けれども、それよりも興味深いのは、

ホメロスが書いた2作「イリアス」と「オデュッセイア」で、

まったく作風が異なるそうなのです。

アメリカの心理学者がとんでもない学説を提唱していて、

その2作の期間のころに、人間にしっかりとした意識が生まれたのではないか、

だから、作品が変わってしまった、というのです。

それまでの人類は神と近しい存在であり、無意識の部分で神とつながる生き物だった、と。

本当かどうかはわかりませんが、そう聞いてから改めて振り返ると、

ユーリの意識が旅をした無意識の集合体のような生物は、

人類にとっての過去ともいえるのではないか、と思えてくるのです。

そして、無意識でつながってしまった時代や場所の異なる何人ものユーリたちを

行き来する悠理は、また、発達していない人を暗喩しているのでは?

そして、私たちの無意識の部分では、私たちはさまざまな時代の私たちと

つながっていて、その経験を私たちは無意識のうちにしているのではないかと、

そんな風に思うのです。

けれども、無意識だから、うまく意識することはできない。

このお芝居をどこか、納得しようとしている自分と、けれども、

なんだかこじつけのようで納得できない自分が、せめぎあうようで、

うまく、面白い、とは言い難い、よくわからない、というのが正解のような、

そんな不思議なお芝居でした。

おわり。







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「ギフト」観ました。

なかまくらです。

第26回菜の花舞台「ギフト」を観てきました。

俳優の橋爪功さんが毎年、伊豆市土肥に公演に来てくださるというイベントだそうです。

今年は「ギフト」という作で、2年くらい前に、雨で中止になったときの演目の再演

ということのようです。

どんなお話だったか。

社会が疲弊し、お芝居の興行を隠れ蓑に、拾ってきた子どもたちに盗みをさせて、

その収入で暮らす男ファースがいた。

子どもたちは、いつもおなかをすかせてはいたが、逞しく生きていた。

そのリーダー格のジンクスは、お金をただ盗むだけではなく、弱者には施しをするような、

義賊のようなポリシーを持っていた。

あるとき、街に作家を名乗るカルロという男が現れる。男は、自由や希望を説いたり、

本を書いたりして、街に変革をもたらそうとしていた。

それを恐れた警察は、カルロに指名手配をかける。

カルロは、ジンクスの亡き母が遺したお金を渡し、ジンクスに言う。

物語の結末は、自分でつくるものだ。

そう言って、ジンクスの読みたかった本の最後のページを破り捨てる。

ファースは誘拐の容疑で捕まり、母を亡くしたジンクスはカルロの言葉を受け、

まっとうに生きると決めて、街を出た。

とある仲間はジンクスと一緒にどこか遠くへ行った。

とある仲間は、本当の母親に出会えて、引き取られていった。

とある仲間は、芝居の実力を見込まれて、今では話題になっているらしい。

残されたファーマは、寂しく過ごすのだった。


みたいな、お話でした。

良く構成された見応えのあるお芝居でした。

あっという間に時間が経ってしまいました。

子どもたちに働かせていたファーマもいい男ではないのでしょうが、

引っ込み思案で役に立たない子も面倒を見るし、

母親が捨てたジンクスも立派に育てたりと、

子ども思いのいいやつ、という側面がちゃんと描かれていて、

憎めない人物、という感じでした。

子どもたちそれぞれの成長もあり、とても素敵なお芝居でした。

おわり。





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2018年観劇の記録

なかまくらです。

2018年も演劇を観ました。


第42回静岡県高等学校演劇研究大会(2日目)観てきました。

  ・ 『遠い声』


  ・ 『暮れないマーチ』


  ・ 『age17@h30.com』


  ・ 『天国(うえ)を向いて歩こう』


  ・ 『硬貨が落ちた隙間の向こう』


「ゲゲゲの先生へ」観てきました。


「しんしゃく源氏物語」観ました。



ちょっと数は少なかったですが、やっぱり演劇はいいですね。

楽しいものもいいですけれど、

真に心を揺らしてくれるのは、演劇だなぁ、と思うのです。

目の前で感情が動き、引きずられるように、自分の心も動く。

そんな共感的な体験ができる稀有な場だな、と思うのです。

やっぱり、イキウメの前川さんの舞台「ゲゲゲの先生へ」は抜群に面白かったです。

現実と虚構の世界が融けてまじりあっていくような錯覚に感嘆したものです。

また、「age17@h30.com」は、静岡城北高校演劇部の作ですが、平成の終わりと

その時代に生きている自分たちを見つめる、その時、自分たちにしかない感覚を

見せてくれた良作でした。

そんな2018年でした。2019年もお芝居を観に行きたいですね。





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