1cm3惑星

なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)

進級テスト

進級テストは、子どもにとってきっと大人が思っている以上に重要な出来事なんだなと思わされることがありました。

 

第一、幼稚園・小学校で、「不合格」と言われるような挫折って、そんなにない気がします。

漢字テストとか計算テストとか、あったとしても、次の日にはまたテストして、「今度は合格、よく頑張ったね」

 

というレベルかな。

ところが、2カ月も練習して(と言っても、実質7回ですが・・・)

「ダメだったので、また2カ月練習しよう」 というのは、

実質、「君の頑張りが足りなかった」と言っているようなもので、大変な挫折なのでしょう。

本当は、コーチの腕が足りなかったり、クラス編成に問題があったりもするのに

(いや、これもコーチの問題か・・・)、その辺は棚にあげて不合格をつきつけるわけです。

 

・・・とはいえ、ダメなものはダメというか、60点で合格なら、60点はとらないといけないわけで。

60点をとらせる指導をするのか、本人が60点をとろうとする指導をするのかというのも、難しいところです。

 

基準はあるわけです。バタフライだったら、

① 手と足のタイミングがあっていること

② 手が真っ直ぐに後ろから前へ戻ってくること

③ 規程の距離を①②を守って泳ぎきれること

この3つなのですが、どれを重視してその子どもを指導するかは、コーチの裁量みたいになっちゃうわけです。

 

それがきっとコーチの腕の見せ所で、子どもが悔しい思いをしてしまっているのは、コーチのそれが甘かった所為。だいたいはそう。

上手な子は、ちょっとお手本を見せればそのままひょいっと出来るようになってしまうものです(そこからの微修正も何だかんだこなしてしまう)。そうでない子の身体的・性格的特徴をいかに理解していくか。その大切さを改めて感じました。

 

おわり。






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考えたこと。

投稿しようと思って、消しちゃった内容ですが、

「いじめ」と「教員の保障」について、考えていること。

以下。

 

まだ学生なのですが、思うところがあったので、発言させてください。 
「いじめ」の問題はどうにかしていかないといけないと思います。しかし、学校現場だけの問題なのでしょうか。学校以外でいじめはないのでしょうか。今、所属している大学のサークルでも、時々、あ、危ないな・・・。と思うことがあります。社会全体で考えていかないといけないのだと、私は思います。 


それから、「保障」のことですが、教員全体に対する、保障のことでしたら、おそらく、給与に関することが主になると思うのですが、身分保障は必要だと思います。 

私が好きな言葉に「すぐ役に立つことは すぐ役に立たなくなる」という言葉があります。 

学校評価や、教員評価というものがされるようになってきていて、保護者や生徒が先生を評価できる時代がもうそこまで来ていると思いますが、その時、どれだけ謙虚な気持ちで評価するのでしょうか。自分の考えが絶対だという思いで評価してもらってはいけないのではないか、と私は思います。 

なぜなら、「先生、それって将来何の役に立つの?」と言うような生徒は、すぐ役に立たないとその先生をきっと評価しないでしょう。評価されずに、保障もなければ、すぐに役に立つことだけを教える教員だけが生き残っていくでしょう。 
でも、例えば、国語力、というのは小説や評論文を国語の時間で読む中で培われていくものだと思います。ある小説を題材に読んで、登場人物の気持ちを考えること、ということ自体が、国語教育で伝えたいことではないのかもしれません。そういった教育をするためには、やはり利益優先では困るのではないでしょうか。そして、保障というのは、その利益優先から教員を守るものであるので、必要であると、私は思います。 

長文失礼しました。






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同好会にたいせつなことってなんだろと、考えてみた。

なかまくらです。ちょっと表題について、考えることがあったので。

 

先生がつくった同好会って、私の経験の中ではみっつありましたが、

あまりうまくいった試しがないです。

そんな経験を書いてみます。いつか役に立つかも、と思うし。


ひとつめは、

高校の時のオーストラリアとアメリカの姉妹校と国際交流をしようというサークルで、

メールのやりとりなどをしていましたが、

そんなに乗り気ではなかった僕が代表に押し上げられたことと、

立ち上げた先生の後を引き継いだ先生がまったく乗り気でなかったので、2年でつぶれました。

 


ふたつめは、

やっぱり高校の時に、俳句同好会がありました。

これは、俳句の詠める先生がいらっしゃって、(授業でも俳句を教材に使う先生でした)、

文芸部 のメンバーを中心として、その中のいい人くらいを集めた俳句の会みたいなのを

半年くらい続けました(卒業してしまったので、その後は分かりませんが、結構 楽しかったです)。

 


みっつめは、

大学に入ってから、科学サークルを先生が企画して立ち上げました。

広島子ども科学館でのイベントの建学に行ったり、ふたつ、みっつと、

小学生の実験集みたいな実験をしましたが、

先生も協力してくださった高速度カメラをつかって、

ミルククラウンや、水風船が割れるのを撮影した実験以外の実験は、

子供だましみたいなものばかりで、3ヶ月くらいで私は脱退してしまいました。


私個人の考えですが、

やっぱり、熱意と経験のある指導者と興味のある学生、

この両方がいないと、どうにもならない気がします。

 

例えば、演劇だったら、

ゲーム感覚の体を動 かして楽しむようなワークショップを定期的に開いたりするために指導者が必要かな、と思います。

それから、義務感でやってたら、間違いなく楽しくないの で、少しでも興味があったりして、学生がわいわいと楽しく出来ることが大切だと思います。

最初から台本読んでみたりしても、

楽しみ方が分からなくてくそ真 面目にやってたら演劇の魅力には気づけないんじゃないかな、と思います。

経験者がいると全然スタートラインが違ってくると思うんですけどね。

あまり参加し てなかった自分のせいですが、

自分が1、2年生の時は、それでもったいない時間を過ごしたなって、今は思っています。






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いじめのはなし

なかまくらです。


いじめの問題が、大きく取り上げられていますね。

少し考える機会があったので、少し書いてみます。




やっぱりなんだかんだ言って、多くの場合加害者が悪い、と思います。

被害者が悪い場合というのが、存在するのか?

いじめに対する意見の中には、被害者の精神力がないから、自殺なんてするんだ、という意見もあります。

100%否定はできない、と思う。

例えば、仲のいい友達が無視してくるから、居場所がなくなった。もう生きていけない。

なんていうのは、ただの喧嘩です。

いじめの定義は、
「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
と文部科学省が定義しています。

しかし、もし、その場面にあって、実はその友達は、他の友達とも遊びたいのに、その子にずっとつきまとわれていて、苦痛だったかもしれない。そういう場合、弱者が強者をいじめているという構図が成り立つのかもしれません。

しかし、ここからが問題なのだと思います。これが、ただの喧嘩で終わるのか、いじめになるのか。

ひとつには、周囲を自分の陣営に巻き込もうとする。
ふたつめに、相手に苦痛を与えることを快楽としてやる。


これをどちらか一方でもやった瞬間に、もう、加害者を擁護する理由はまったくありません。


人間関係で腹が立つなら、個人的に勝手に無視すればいい。


ところが、加害者はたいてい積極的に危害を加えるわけで。
(無視するだけにせよそうでないにせよ)周囲にもそれを求めるわけで。
それで危害を加えることを楽しんでいる場合が多いのではないかと思う。

加害者が優越感やその行為に快楽を感じているようならば、そんな幼稚園児みたいな道徳心しか持たない加害者を擁護しようとはまったく思わない。


ふざけている と いじめ というのを区別するのは、非常に難しい問題だと思います。

ふざけている、というのも、暗黙のルールのうちで行われなければならないはずです。

そしてそのルールはフェアであり、お互いの積極的な同意の下で形成されたものであるべきです。

一方的にちょっかいを出している、というのは、きわめて危うい状態である、と気をつけなければならないのだと思います。

いじられることで、自分の居場所が出来ている、ということもよくある人間関係の構造だと思います。

これを完全に排除するのは、論点がずれている。

気をつけるのは、そのちょっかいを出している人間、その周囲の人間が、今一度、自分を省みることであると思います。

”スタンフォード監獄実験”のように、いつの間にかその役割が当然のようになりだしたなら、自分ではもう戻れないところまで来てしまっているのだと思います。

なおかつ、いじめの段階が進む、と被害者は加害者への居場所としての依存が強まって、SOSを出さなくなる場合もあるそうです。

その時には、公平な立場の第三者が道徳心を思い起こしてやらねばならないのだと
思います。


おわり。





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6年制


教員養成は「6年制」、修士レベル必要…中教審

読売新聞 6月26日(火)17時33分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120625-00001073-yom-soci



今年理系の院の2年生になりました。
昨年、少し非常勤講師をさせていただきまして、思ったのですが、コミュニケーション能力の問題とかがあるのではないかな、と思います。必要なのは、きっと、もっと人間として豊かな人。色んな人生経験をしてきていて、挫折も味わっているし、楽しいことも知っている。私だって、そういう人と話していると魅力的を感じるし、子どもも、こういう大人になりたい、なんて思ってもらえるんじゃないかな、と思います。そうありたいな。
修士必須にするぐらいなら、教員として採用してから2年間、民間の契約社員として働くとかの方が有用な人材になりそうですよね。サッカーの期限付き移籍みたいな感じで。





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