1cm3惑星

なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)

同好会にたいせつなことってなんだろと、考えてみた。

なかまくらです。ちょっと表題について、考えることがあったので。

 

先生がつくった同好会って、私の経験の中ではみっつありましたが、

あまりうまくいった試しがないです。

そんな経験を書いてみます。いつか役に立つかも、と思うし。


ひとつめは、

高校の時のオーストラリアとアメリカの姉妹校と国際交流をしようというサークルで、

メールのやりとりなどをしていましたが、

そんなに乗り気ではなかった僕が代表に押し上げられたことと、

立ち上げた先生の後を引き継いだ先生がまったく乗り気でなかったので、2年でつぶれました。

 


ふたつめは、

やっぱり高校の時に、俳句同好会がありました。

これは、俳句の詠める先生がいらっしゃって、(授業でも俳句を教材に使う先生でした)、

文芸部 のメンバーを中心として、その中のいい人くらいを集めた俳句の会みたいなのを

半年くらい続けました(卒業してしまったので、その後は分かりませんが、結構 楽しかったです)。

 


みっつめは、

大学に入ってから、科学サークルを先生が企画して立ち上げました。

広島子ども科学館でのイベントの建学に行ったり、ふたつ、みっつと、

小学生の実験集みたいな実験をしましたが、

先生も協力してくださった高速度カメラをつかって、

ミルククラウンや、水風船が割れるのを撮影した実験以外の実験は、

子供だましみたいなものばかりで、3ヶ月くらいで私は脱退してしまいました。


私個人の考えですが、

やっぱり、熱意と経験のある指導者と興味のある学生、

この両方がいないと、どうにもならない気がします。

 

例えば、演劇だったら、

ゲーム感覚の体を動 かして楽しむようなワークショップを定期的に開いたりするために指導者が必要かな、と思います。

それから、義務感でやってたら、間違いなく楽しくないの で、少しでも興味があったりして、学生がわいわいと楽しく出来ることが大切だと思います。

最初から台本読んでみたりしても、

楽しみ方が分からなくてくそ真 面目にやってたら演劇の魅力には気づけないんじゃないかな、と思います。

経験者がいると全然スタートラインが違ってくると思うんですけどね。

あまり参加し てなかった自分のせいですが、

自分が1、2年生の時は、それでもったいない時間を過ごしたなって、今は思っています。






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いじめのはなし

なかまくらです。


いじめの問題が、大きく取り上げられていますね。

少し考える機会があったので、少し書いてみます。




やっぱりなんだかんだ言って、多くの場合加害者が悪い、と思います。

被害者が悪い場合というのが、存在するのか?

いじめに対する意見の中には、被害者の精神力がないから、自殺なんてするんだ、という意見もあります。

100%否定はできない、と思う。

例えば、仲のいい友達が無視してくるから、居場所がなくなった。もう生きていけない。

なんていうのは、ただの喧嘩です。

いじめの定義は、
「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
と文部科学省が定義しています。

しかし、もし、その場面にあって、実はその友達は、他の友達とも遊びたいのに、その子にずっとつきまとわれていて、苦痛だったかもしれない。そういう場合、弱者が強者をいじめているという構図が成り立つのかもしれません。

しかし、ここからが問題なのだと思います。これが、ただの喧嘩で終わるのか、いじめになるのか。

ひとつには、周囲を自分の陣営に巻き込もうとする。
ふたつめに、相手に苦痛を与えることを快楽としてやる。


これをどちらか一方でもやった瞬間に、もう、加害者を擁護する理由はまったくありません。


人間関係で腹が立つなら、個人的に勝手に無視すればいい。


ところが、加害者はたいてい積極的に危害を加えるわけで。
(無視するだけにせよそうでないにせよ)周囲にもそれを求めるわけで。
それで危害を加えることを楽しんでいる場合が多いのではないかと思う。

加害者が優越感やその行為に快楽を感じているようならば、そんな幼稚園児みたいな道徳心しか持たない加害者を擁護しようとはまったく思わない。


ふざけている と いじめ というのを区別するのは、非常に難しい問題だと思います。

ふざけている、というのも、暗黙のルールのうちで行われなければならないはずです。

そしてそのルールはフェアであり、お互いの積極的な同意の下で形成されたものであるべきです。

一方的にちょっかいを出している、というのは、きわめて危うい状態である、と気をつけなければならないのだと思います。

いじられることで、自分の居場所が出来ている、ということもよくある人間関係の構造だと思います。

これを完全に排除するのは、論点がずれている。

気をつけるのは、そのちょっかいを出している人間、その周囲の人間が、今一度、自分を省みることであると思います。

”スタンフォード監獄実験”のように、いつの間にかその役割が当然のようになりだしたなら、自分ではもう戻れないところまで来てしまっているのだと思います。

なおかつ、いじめの段階が進む、と被害者は加害者への居場所としての依存が強まって、SOSを出さなくなる場合もあるそうです。

その時には、公平な立場の第三者が道徳心を思い起こしてやらねばならないのだと
思います。


おわり。





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6年制


教員養成は「6年制」、修士レベル必要…中教審

読売新聞 6月26日(火)17時33分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120625-00001073-yom-soci



今年理系の院の2年生になりました。
昨年、少し非常勤講師をさせていただきまして、思ったのですが、コミュニケーション能力の問題とかがあるのではないかな、と思います。必要なのは、きっと、もっと人間として豊かな人。色んな人生経験をしてきていて、挫折も味わっているし、楽しいことも知っている。私だって、そういう人と話していると魅力的を感じるし、子どもも、こういう大人になりたい、なんて思ってもらえるんじゃないかな、と思います。そうありたいな。
修士必須にするぐらいなら、教員として採用してから2年間、民間の契約社員として働くとかの方が有用な人材になりそうですよね。サッカーの期限付き移籍みたいな感じで。





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レベルの違う子をどう育てるのか?

5年もレッスンやってて、まだまだだなぁ、と痛感した昨日のレッスン。

クラスの中で、2/3くらいの子は、1000mくらいぺろりと泳げる。
1/3くらいは、600mでもひぃひぃ言ってる。(しかも涙目;;)

この差を如何に克服するか。

タイム級なので、タイムを伸ばしてやらねばならないのですが、やるべき事は、

1 フォームの改善。
2 フォームの定着。
3 フォームを維持して泳ぐ体力(筋持久力)の育成。
4 その種目に必要な、筋瞬発力の育成。
5 頑張れる根性の育成。

この5つだと思うのです。

距離を泳がないでタイムを伸ばそうとすると、2と3と5が難しい。
1と4とを徹底的にやるべきなのでしょうね。現に、そうやっているコーチが多い気がします。

でも、どうなんだろう。まあ、速くなれば、自信につながるからいいのでしょう。
ただ、場当たり的な対処をしているような気がするんですよね、なんとなく。

ただ、段階的に今は、1に取り組んでいます。
そして、この間に1/3の子をせめて800mまで引き上げようとしています。

さて。個に応じた練習をさせていると、安全確認が疎かになる。指摘されました。

まだ出来ないことがこんなにあるのだなぁ、ということになにやら感激、と反省。


そして、教室もきっとこんな感じに悩むのではないかと想像。

勉強が出来る子とできない子がいる。
出来る子には、本質的なことを少しでも伝えてやりたい。
一方で、出来ない子には、最低限の計算が出来て、目の前の試験をクリアーしてもらいたい。
個の指導に力を入れすぎれば、全体の安全が確保できなくなる。


でも、これってやっぱりおかしい。

出来ない子には、出来る子には、というのを個性というのは実にうまい逃げかたのように見えます。

結局伝えたいことは何だ? と、突き詰めていくと、

ああこれって 面白いんだ! 楽しいんだ! ということなんだと、思いたい。

同じクラスの中に同じところまで泳ぐということを頑張ってきた子達がいるのだから、

楽しいなって思わせてやりたい、と思った、昨日の話。







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basics of physics

なかまくらでござる。

エントリーシートを書いています。


教員を志望した理由。


私は、スイミングスクールのコーチとして・・・云々・・・

気をつけたのは、基本をしっかりと教えることです。

泳ぎの基本を教えることで、他の泳ぎにもいい影響が(みたいな感じの文を考え中・・・)

物理の基本は~です ← 今ここ。

私は、このような基本を大切に指導をしていきたい。(う~~ん、教員になりたい理由じゃない気がする・・・ 笑)


物理の基本って、何?

基本とは「物事成り立つためのよりどころとなるおおもと。」

のことです。

物理の基本について考えるとき、二つの基本が浮かびます。


ひとつは、現象を不思議に思う能力。

世の中には不思議な現象がたくさんあります。

人間は何故2本の足で立っていられるのか? 歩くより走る方が速いのは何故か? 夕焼けは何故赤いのか? りんごは何故落ちるのか? 消しゴムで何故字を消せるのか? ハサミは何故紙を切れるのか? 飛行機は何故空を飛べるのか? エレベーターに乗ると何故重さを感じるのか?

いくらでもありますが、いくつ答えられますか? 不思議ですよね。これを不思議だ。どうしてか、考えてみよう!

と考えた人が、物理学を作った。これらの無限みたいにある現象は、いくつかの体系のどれかとして理解することが出来るわけです。力学・電磁気学・光学(波動)・熱力学(統計力学)・量子力学。こうした学問体系は決して楽なばかりの道のりではありませんが、不思議なことを分かりたい! 学びたい! と思っている人は、越えてゆけるはずです。

だから、物理の基本のひとつは、現象を不思議に思う力だと思うのです。


もうひとつは、イメージする力。現象を、模式的に図にする力。

つまり、仮説(モデル)を立てる力です。何も新しい現象を発見しようってわけじゃない。ボールを投げたら、放物線を描いて飛び、重力に引かれてやがて地面に落ちるだろうという簡単な仮説。
これが描けると、問題が解けやすい。見たことのない運動でも、力が働けば、引っ張られる方に動くだろう。違う方向の二つの力があれば、力の大きい方に動くだろう。そういう仮説が立てられる力。イメージする力。模式的に図にする力。

物理の基本のひとつは、イメージする力だと思うのです。


このふたつ。どちらも大切ですが、スペースを考えると、どちらかしか書けない。


イメージする力は、物理の問題を解けて楽しい! という意味で、好きになるために大切です。

不思議に思う力は、物理ってそんなことが分かるのか! という意味で、好きになるために大切です。


学校教育では、学校によって、どちらの基本を教えるか、使い分けることを求められている気がします。

でも、「論理と証明」という数学の項目を理解して卒業する中学生は全体の2割なんだそうです。

そこに、物理の問題を解けて楽しい! という基本を果たして持ち込むことができるのか? という葛藤と、

高校レベルで、物理ってそんなことが分かるんだ! で、止まっていいのか、という葛藤が、

せめぎ合って、今、どちらも書けずにいます。

さあて、どちらを書くべきか。てゆうか、これは、ダメじゃないかと、思いつつも、


とりあえず、一度やってみるのだ。





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