なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)
なかまくらです。
劇団群青第二回公演「A・R―芥川龍之介素描―」 観てきました。
作・如月小春 演出・三村友理
あらすじ。
作家はまだ学生の頃、颯爽と文壇に現れた。しかし、時代が自由な表現を阻み、親族を養わなければならず、作家は段々と追い詰められていく。作家の頭の中に歯車が増え、やがて覆い尽くされていく。神経はやせ細り、夜は少しの物音に眠れず、ただ書くことの純粋な喜びの中に書きたいと。やがて、最後に私小説を書き上げ、服毒自殺を遂げる。
はい・・・ええと、鬱々となるお芝居でした。嫌だ。観ていられない・・・最後まで観ましたけども。
それから、やってはいけない物語だったんじゃないの、とも。
役者さんはみんなよく練習されていて、よかったですよ。森岡くんのウェイターのダンスに彼の動きの将来性をみてちょっと安心。絵師の弟子の子、やばい、エロい(♂)。色気がある。むしろ師匠食ってた。楽しみ。編集の和俊くんの最後らへんの長い台詞にぐっときた。正直、このお芝居、よく分からなかった。でも、前後の情景を作りだし、活気のある街の中の二人をありありと浮かび上がらせた。よかったです。
さて。
そう。
よく分かんなかったんですよ、残念なことに、理系頭には。
芥川龍之介が好きな人なら楽しめたんでしょうか?
劇中劇の意図、糸。いや、分からないではないんです。
蜘蛛の糸をたどって天国を目指す人間のこと。娘の焼かれる姿を絵を書く喜びにうち震えて描き出す作家のこと。
それらがきっと作家のことを描き出していたんだろう、ということなんでしょうけれど、理解は出来るけど、すんなり入ってきてくれなかった感じがもやもや。
あと、仙人になろうとする話(名前知らない)と羅生門はなぜ取り上げたのか分からなかった。どうしてこれなんだろう?
これらのことについて考えてみると、このお芝居の登場人物は、彼(作家)のことを語る方が多くて、彼の前には誰もいなかったんじゃないのかとすら思えるのです。妻は静かにあるだけで、編集は初めの場面、観客席に向かって語り出す。関係性を描き出すには少ない会話。それが彼らの本当だとしても、本当にそれは伝えようとはしていなかったのではないかと思わされました。だから、劇中劇のいくつかは何故これなのか理解できなかったし、全体を通じて現れる歯車も、その意味が理解できず、ただ、彼を蝕むウイルスのように見えてしかたがなかった。あの形は、インフルエンザだよ・・・(ぉぃ
そういういろいろで、どう観たらいいのか困るお話でした。前提となる知識を持っていないといけなかったのか、それとも、そこにもっと集中して居れば何か伝えたかったことが分かったのだろうか・・・。
そこに、物書きの端くれであることも邪魔をして、めっちゃよかった、というよりは、うんまあまあよかったよ。という感じでした。
演出についてはこういうお芝居を演出する自分が想像できないので、まあ、違和感は感じなかったです、ということで。あ。最初のシーンの封筒が、ちょっと変だったけど、まあいいや。
これもやはり個人的な思いですが、作家を殺した言葉は、編集の言葉でしょう。何気なく行ったあの言葉なんでしょうけれど、「私小説とかどうです? 最近流行りですよ」 この言葉が作家を殺したんだと思います。
私が私小説に近いものを書くことが多いので、(そこ、ぇ、とか言わない!)
だから、思うのですが、物書きは、自分という人間、その生き方、感じ方を千切って売っているのだと思うのです。
そして、私小説ほど、自分を大きく千切ってしまうものはない。そうして、全部千切ってしまっては、もはや売るものもなく、生きていくことなど到底できない。そういうものだと思うのです。
だから、この物語はやってはいけない物語なのではないか、と感じるわけです。人を借りていますが、結局それを感じ取り、やるのは、今を生きる人ですから。
この物語で一番感じたのは、作家を殺したのは編集です。個人的な考えですが。
おわり。
今晩は。遅くなってしまいましたが、ご来場ありがとうございました!そしてツイッタ―企画に賛同してくださりありがとうございました^^
超文系頭の、しかも日本文学を専攻している私がいつかやってみたいことに文学作品を演劇化する、というのがありまして。
そして、芥川の生きざまを舞台上でトレースするのではなく、自分と他者といういつも私の中にあるテーマを芥川を通して表現したいという思いで作ってきました。
編集者が彼を殺した、と言うのは私の中では遠からずな意見です。
もちろん文学史的な流れで「自然主義」という私小説が隆盛してきた時期と、重なるのですが、【編集者】は「作家の一部(描きたい表現したいという欲望)」でもあり、また「(身勝手に期待する)読者の一人」だと思っています。作家と時代との乖離、そして迷いが、編集者の言動に現れているのではないかと言うのが私の考えです。
自殺した故人を、今を生きる私達が表現することは無意味なのかもしれません。しかし、何かを賭してまで没頭する人と、それを取り巻く他者(期待する人、相手にされない人)の関係性は大なり小なり普遍的なのではないかと思い、この脚本を選びました。
上演の段階で作品解釈や、演出意図など、伝えたいところが伝えきれず、まだまだ未熟だなと反省しております。
物足りない個所もあったかもしれませんが、最後までご鑑賞していただき、またこうして意見してくださりありがとうございました。
また機会があれば、ぜひ。
>ミムラさん
コメントありがとう。演出お疲れ様でした。
既成の戯曲をやる人を見るたびに、自分の伝えたいことが自分の外にあるなんて幸せだな、と思ったりもします。
コメントを見て思いましたが、編集者はその時代、まだ会社員ではなかったのかもしれませんね。今の時代、編集は決まった給料をもらって生活しているはずですから。そう言われて思い返してみれども、やっぱり、人に期待することは時としてその人を追い詰めるのだと思った。「私小説なんてくだらない。でも、あんたが書くものなら読んでみたい」そう言われて、どれだけ追い詰められることか。想像すると恐ろしい。
わからないけれど、わからないけれど、
よくある手法なんだと思うのだけれど、
劇中劇というのはひどく取り扱いが難しいんだと思う。
劇中劇と本編をどうやって空でつながっているようにみせるかというのは大変な課題のように思う。蜘蛛の糸を手繰りたかったのは誰なのか。羅生門で、悪を憎む士は誰だったのか、絵を書く喜びに打ち震えたのは誰だったのか。それをコロスに割り振らないで、現実世界の人間に割り振ったら違ってきたんじゃないかって、私だったらそういう解釈でやったのかな、なんて思いました。劇中劇の浮遊感と停滞感がもったいなかったような。
まあ、好きなものをやるのが一番なのです。かのMゾベさんも高瀬舟をやりたいと、私にぼやいていましたよ^^;
ああでも、私小説でないとするならば、あれが良かったのかも知れず、でも、そうするとどうやって橋渡しするかはますます難しいな・・・。とはいえ、どこかしら、結局自分が観たこと感じたことを作品にしているはずなんだとは思うのだけどね。。
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