なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)
なかまくらです。
「新世界より」 読みました。
現在、アニメが放映されており、それが面白そうで、ところが息切れしてきてるので(苦笑)、
これは、原作を読もう、と。文庫化されていた(上)(中)(下)巻を一気読み。
あらすじ
渡辺早季は神栖66町に生まれた。
人類はPK能力(サイコキネシス能力)を獲得しており、
十才を過ぎる頃から”祝霊”が訪れ、祝霊が訪れた子供は全人学級に移っていく。
早季の”祝霊”は遅く、クラスで最後から2番目になって、ようやく訪れたのだった。
全人学級では、PK能力の能力訓練とともに、前の学校と同じように道徳教育が徹底されていた。
神栖66町を囲うように張られた八丁標(はっちょうじめ)の外側には、
人を殺すことを厭わない悪鬼、そして恐ろしい能力を持つ業魔がいると。
早季らは学校の行事の一環として夏季キャンプに出掛ける。
それは、普段絶対に出られない八丁標の外に出られるイベントであった。
そこで、彼らは、ミノシロモドキという生物の姿を模した旧科学技術文明の残した
現在の人類の真実を知ってしまう。
PK能力者と非PK能力者の戦争。
そして、人が人を殺せないようにと遺伝子に組み込まれた
「攻撃抑制」と「愧死機構(きしきこう)」というシステム。
そして、神栖66町にPK能力者しかいないという事実が示唆する、「不適格者の処分」という可能性。
彼らは大人たちによって記憶のどこかに封じ込められてしまった級友の姿をなんとなく感じていた。
そして、それを知ってしまった早季らも、無事では済まないはずだった。
しかし、バケネズミと呼ばれる、人間が使役するために改良したネズミの抗争の最中、
早季らの運命は変わる。早季らが真実を知ったということを知る人物は道中で死に、
バケネズミとの協力を経て、早季らは無事にキャンプから生還する。
しかし、事態はそのままでは終わらなかった。
キャンプに一緒に行った一人は、業魔となり、
一人は、不適格者として「処分」されそうになり、郷を脱走する。
さらにそれについて、彼の恋人が郷から消えた。
夏季キャンプにいった仲間たちが次々といなくなっていったのだった。
それから時は流れ、
早季は全人学級を卒業し、保健所の異類管理課というところで働いていた。
そして、夏祭りの夜、人間に忠実だったバケネズミの巨大なグループのひとつが、
人類に対する反逆を開始したのだった。
しかも、あろうことかバケネズミは人を殺すことのできる
悪鬼(攻撃抑制・愧死機構を備えていない人間)を従えていたのだ。
バケネズミの巧みな戦術も功を奏し、
神栖66町の人々は悪鬼を攻撃できないまま、一方的に殺されていった。
早季と覚、二人だけ残った夏季キャンプの仲間は、
かつて、PK能力者と非PK能力者が戦争をしていた時代、
非PK能力者がPK能力者を殺すために作り出した細菌兵器を手に入れるため、
人間に忠実なグループのバケネズミの生き残りである奇狼丸に案内を頼み、
死の土地、東京へと踏み込むのだった。悪鬼は彼らを追ってくる。
死の鬼ごっこが続き、早季らは細菌兵器を手に入れる。
早季らは、東京を、悪鬼との決戦の場所として最後の対決に臨むことになるのだった・・・!
とまあ、1500頁くらいありますので、もう、重厚。非常に重厚。
2008年、第29回日本SF大賞受賞作品でもあるそうです。
で、もうね、面白い。抜群に面白い。
ドキドキわくわくの連続。主人公の悲しみ、焦り、疲労、そんなものが伝わってくるようでした。
ページをめくる手の汗で、どのページも少し縒(よ)れてしまったよ...!
郷の生活の微妙な違和感とそれに伴う緊張感が、私にページをめくらせ、
気が付いたら、「新世界より」の世界観にどっぷり浸かっていました。
その世界観に魅力を与えた中核となっていたのは、
PK能力者の設定と、バケネズミをはじめとする進化の進んだ野生動物の描写でした。
「攻撃抑制」と「愧死機構(きしきこう)」という、
PK能力者が同胞である人間を殺すことを阻むシステムのうち、「攻撃抑制」については
オオカミなど、高い攻撃力を有する動物に実際に備わっているものであるそうです。
人間も、いまや、高い攻撃力を持っているといっていい。
しかし、そうやって人が人を殺さないことは、全うなことなのだろうか、
この作品は私たちに、そんな疑問を投げかけてきます。
また、不適格者の処分や、バケネズミに対する人間の行動は人種差別や戦争などといった
重いテーマでもありました。
生命の生存、そしてその権利というものは考えてもそう簡単に結論が出るものではないのですが、
文庫版の表紙にプリントされた作物の耕作地や、野山の風景、
そして、タイトルにもなっているドヴォルザークの「新世界より」から、
繰り返し描写される「家路」。そのメロディーは、何か、原風景のようなものを私の中に湧き上がらせ、
それは、1000年後にも変わらず続く、日毎の生命の営みを感じさせ、
正体のわからない感動を私に与えるものでした。
とにかく、
面白い作品でした!!
なかまくらです。
昨日、後輩に誘われて、フェルメールの絵画を観に行ってきました。
フェルメールというのは、17世紀にオランダで活躍した画家だそうで、
せっかくなので、Wikipediaで少し、人物の予習をしてから行きました。
彼は晩年は資金のやりくりに奔走していたそうで、
事前知識の中では、1670年以降の作品にどんな影響があるのかな、と思いながら会場へ。
実に37点もの作品(レプリカですが)が展示されておりまして、実に興味深かったです。
単に漫然と見たというより、
一連の作品群というのがふさわしいというものでした。
3~7枚くらいの作品が、同じ場所で描かれており、
意図的に同じ人物の違う時間が描かれているようでした。
それを追うことで、当時の人々の様子をあれこれ想像させる物語性が、
絵の中に込められているように感じました。やー、絵って、案外いいね(笑)。
それにしても、感じたのは、絵画の中の部屋の風景に実に多くの絵画が飾られているということ。
今の日本にはない風習のように感じますが、素敵な文化ですよね。
そんなわけで、貴重な体験ができたわけですが、私は、
時々、あることを思い出すのです。
2年ほど前の話ですが、卒業公演の後の話、
「(私の本名)さんの知識の膨大さにびっくりしました。どんな本とか読んでいるんですか?」
と、ひとつ下の後輩に褒められて、非常に照れた思い出があります。
その後輩は、後輩ながら実に尊敬に値する人間でありまして
(恵まれたことにそういう人間に私はよく出会えている気がするのですが)、
そんな彼に褒められながらも、いや、褒められたからこそ、照れるやら、
そのわが身、わが心の浅薄さゆえに、彼が、
私の想像をはるかに超えてその物語を理解してくれたのではないかと、
恥ずかしく思ったものです。
物語りをすればするほど、自分という人間の中身の取るに足りないつまらなさを、
自分という人間の解として得ることができて、他者に嫉妬していくのです。
「私って、ほんとうにつまらない人間だな、って。」
今、私は人生の岐路に立っているはずなのですが、
それも、狭い了見の中で、わがままに、
頑なにそう在ろうとしている一本の葦で支えられている案山子のようなものなのですが、
いろんなことを知りたいなぁ、と、
貪欲であり続けたいなぁ、と、
改めて思う出来事でした。
おわり。
なかまくらです。
新作です。なんか、もっと言い表す言葉がありそうなのですが、今の私には残念なことに思いつかなくて、これが精いっぱい。
神様の化石
作・なかまくら
現実というやつは、今までに見たもののことを言うらしい。
「いいか、手を触れるなよ」 父さんはそう言って、ネクタイを緩める。冷蔵庫からプリンを取り出すと、ねじれたスプーンで器用に口に運んだ。もぐもぐ、もぐもぐ。歯茎はピンク、歯は白く。肌は黒く、髪も黒く。
木製のテーブルの周り、温度を調整した室内には多種多様な植物が生え並び、それぞれに昆虫や動物が規定され、配置されていた。
「うん」
ぼくはガラスケースの中のそれから目を離すことができなかった。
ぼくの家にやってきたそれは、何色というのはむずかしい光沢で揺らめいていた。それは4足で歩く動物に似ていて、胴体から上に首が伸びていた。足は不定形におおよそ4つから6つの範囲でアメーバのように伸長と収縮を繰り返していた。目の粗いポリゴンのような角張った結晶の網膜の中でぼうっと光が動いて、差し出された植物に口をつけると、
植物は種に戻った。
*
この星にはかつて神性を司る生物がいたとする。だが、それを証明することはおそらく難しい。しかし、その遺存種がこうして目の前に顕現しているのだよ。
父さんが同僚にそう話している。曰く、神性を証明することはむずかしい。化石として保存されるのはカタチであるからだ。カタチが表すことは、ひどく表面的だ。
脳のカタチが特異的に心やその感情を作っているわけではない。ぼく達だってそうであることを知っている。そう思っていることを、みんなそれぞれ、自分だけが知っている。他人に見せているのはカタチだけだ。
ぼくはガラスケースに湿った呼気を塗り付けると、『 か み さ ま ? 』と指で書いた。
それは、ふわふわとガラスケースの中に浮いたままで、しばらくして結晶の網膜に光がぼうっと浮かんで。
乾燥したように、すぐ消えた。
*
月曜日が来ると、友達が来た。
食べかけだったジャンクフードを慌てて食べる終えると、ごくり。
肉厚なハンバーグが喉をザラリと撫でた。身体の中を順に通っていく。食道、胃、どぼん。たぷたぷ。少し量が多かった朝食の牛乳が胃で自己主張をする。
ショッピングモールのシネコンで映画を見終えて、トイレへ。身体の中を通り過ぎていく、物質。すいへいりーべ、ぼくの船。
港に船が来航すると、物資が配給される。にんじん、じゃがいも、たまねぎ、鳥肉、ナスなんかもあるよ。背骨さん、はいカルシウム。筋肉さん、はいタンパク質。配給が行き届くと、みんな持ち場に戻ってせっせと身体づくりに励む。
「カレーばかり食べると、カレーの臭いがするようになるんだってよ。某国は国中カレーの臭いらしいぜ?」 カレーハウスの一角では、彼がどこかのネット上の掲示板から仕入れた情報を得意げに話している。
ぼく達の外側でショッピングモールの通路を人が、ひっきりなしに行き来していた。
*
その動物が発見されてからしばらく経つと、ついに研究者達は解剖という手段に踏み出すことになる。
ぼくは飛び起きた。家に曲がっていないスプーンはなかった。
ある時からずっとそうだった。部屋中のものが思い思いの音を立てて一斉に床に落ちた。
ぼくは汗をタオルで拭って鏡の中に映しだされた自分を確認する。不思議なところはない。目は結晶で出来ていないし、身体はいつだってこのカタチをしている。説明はできないけれど、自分のカタチを確認して、ぼくは枕をかき抱いて顔をうずめた。
きっと神様は、生まれる前に死んだんだ。自分の中の神様をぼくは強く強く、抱いた。
ぼくの夢の中は、化石になる動物たちを思っていた。石を食べると、代わりに肛門からいろいろなものが出ていく。最初に血液と体液。赤血球とか白血球とか、血しょうとか。それからずるずると血管が慎重に引きずり出されて、すっかり涸れた脳髄がくっついてきて。それからそれから、ジャガイモみたいに肺とか、心臓とかが体内からすっかり排出されてくる。するともう、ぼくは意味のない酸素を求める金魚みたいにパクパクパクと石を食べる生き物になる。
ハンバーグで出来ていた背骨のなかの脊髄が、パチン、と石に変わった。
あとがき
夜更かしすると、エンジン音がします。ぐるるるr・・・って。
宥(なだ)めるための、チョコレートがおいしいです。
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