なかまくらです。
いじめの問題が、大きく取り上げられていますね。
少し考える機会があったので、少し書いてみます。
やっぱりなんだかんだ言って、多くの場合加害者が悪い、と思います。
被害者が悪い場合というのが、存在するのか?
いじめに対する意見の中には、被害者の精神力がないから、自殺なんてするんだ、という意見もあります。
100%否定はできない、と思う。
例えば、仲のいい友達が無視してくるから、居場所がなくなった。もう生きていけない。
なんていうのは、ただの喧嘩です。
いじめの定義は、
「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
と文部科学省が定義しています。
しかし、もし、その場面にあって、実はその友達は、他の友達とも遊びたいのに、その子にずっとつきまとわれていて、苦痛だったかもしれない。そういう場合、弱者が強者をいじめているという構図が成り立つのかもしれません。
しかし、ここからが問題なのだと思います。これが、ただの喧嘩で終わるのか、いじめになるのか。
ひとつには、周囲を自分の陣営に巻き込もうとする。
ふたつめに、相手に苦痛を与えることを快楽としてやる。
これをどちらか一方でもやった瞬間に、もう、加害者を擁護する理由はまったくありません。
人間関係で腹が立つなら、個人的に勝手に無視すればいい。
ところが、加害者はたいてい積極的に危害を加えるわけで。
(無視するだけにせよそうでないにせよ)周囲にもそれを求めるわけで。
それで危害を加えることを楽しんでいる場合が多いのではないかと思う。
加害者が優越感やその行為に快楽を感じているようならば、そんな幼稚園児みたいな道徳心しか持たない加害者を擁護しようとはまったく思わない。
ふざけている と いじめ というのを区別するのは、非常に難しい問題だと思います。
ふざけている、というのも、暗黙のルールのうちで行われなければならないはずです。
そしてそのルールはフェアであり、お互いの積極的な同意の下で形成されたものであるべきです。
一方的にちょっかいを出している、というのは、きわめて危うい状態である、と気をつけなければならないのだと思います。
いじられることで、自分の居場所が出来ている、ということもよくある人間関係の構造だと思います。
これを完全に排除するのは、論点がずれている。
気をつけるのは、そのちょっかいを出している人間、その周囲の人間が、今一度、自分を省みることであると思います。
”スタンフォード監獄実験”のように、いつの間にかその役割が当然のようになりだしたなら、自分ではもう戻れないところまで来てしまっているのだと思います。
なおかつ、いじめの段階が進む、と被害者は加害者への居場所としての依存が強まって、SOSを出さなくなる場合もあるそうです。
その時には、公平な立場の第三者が道徳心を思い起こしてやらねばならないのだと思います。
おわり。