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なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)

「何を学ぶのかではなく、どう学ぶのか」

日本の教育は「何を学ぶのかではなく、どう学ぶのか」

これを重視するようになってきているように感じます。

でも、学問の最高機関である大学への入り口はそうなっていない。

センター試験。2次試験。

センター試験は、平成30年に終わりますが、

そのあとを引き継ぐ基礎学力診断テストも、結局、国語、数学、英語とか、

教科の知識を訊くことになるんでしょう、今の感じだと。

大学が求める人材は、ちゃんとした基礎学力がある人間。

これは大きく変わらないと思うんです。

だったら、学校の先生が言う通りに勉強するとバカを見ることになりかねない。

だって、ひたすら講義しても最後まで終わるかどうかの分厚さの教科書なんですよ、

理科や数学の教科書って。

だったら、どう学ぶのかを重視して、学びあいや、アクティブラーニングといった、

生徒が主体的に意見を交換したり、発言することに重きを置いた学習をしていったら、

まあ、学習すべき内容が全部終わらないのはある意味必然。

それでも、全部学習が終わっていないと点が取れないテストを作るんですよね。

・・・・・・分かりますよ。ええ、分かります。

「良い学び方をしていれば、教科書の問題の解説なんてしていなくても、

 生徒は、学ぶ過程で培われた思考力・表現力でもって、スイスイ解けちゃう」

そういうことがしたいんでしょうね。

確かに、教科書の問題の解説をしなければ、終わりますわ。

でも、じゃあ、分数の計算が未熟とか、そういう段階から高校生活をスタートして、

一発逆転を狙っている子どもたちはもう、チャンスがないってことじゃないですか。

ひとつひとつ丁寧に説明をしていってやれば、理解できるけど、

それを許さないということ。人生に逆転なんてありえないってこと。

そういう道を作ろうとしているってことですよね。腹が立ちますね。


もし、この国が今の教育の方針を貫きたいのなら、

やるべきことは、「どう学んだのか」を測るテストを作り出すことだと思うんですよ。

その指針を示して、そのうえで、どのような勉強をさせるべきかを教員に提示しないと

いけないのではないでしょうか。

そうしなければ、教えたように一生懸命活動しても、それが、進路実現に繋がらない。

そんな子ども達の残念な顔を見るために、教員をやっているわけじゃあない。


そして、もう一つのチグハグな点は、

大学を独立行政法人化して、助成を少しずつ減らしていることです。

助成を減らすということは、国の大学への影響力が減るということだと思うんですよね。

だったら、大学は生き残るために、学力の高い学生をとるでしょう。

好奇心を生むのは、知識だと思うんですよね。

知識がない人間は、ただの空っぽの入れ物と一緒だ。

あるいは、ただの電卓みたいなものだ。思考力がいくらあっても、

知識がなければ駄目ですよ。

物質は何からできているのか。なぜ、水よりも食塩水は電流が流れやすいのか。

温度の正体はなんだろうか。化石燃料とは何か、なぜ枯渇するのか。

電流とは何か。風はなぜ吹くのか。飛行機はなぜ飛ぶのか。

なぜ鉄は錆びて、銀は錆びないのか。電池とは何か。バッテリーとは何か。

パソコンはどうやって記録を残しているのか。インターネットとはなにか。

原子力発電とは、どうやって発電しているのか。

知らない大学生を大量に生産して、どうするんだろうね。





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