小品ですが、どうぞ。
「先生」
作・なかまくら
2023/08/13
先生は私のことを旧姓で呼ぶ。
「先生!」「ああ、古井か。何年ぶりだ・・・?」
「5年ぶりです」
「・・・そうか、就職、決まったのか」
「はい。それで、私、もうすぐ、古井じゃなくなるんです」
「・・・それはおめでたい話ということ?」
「はい」私は薬指に光る指輪を輝かせた。
「そうなんだな、あの、お転婆姫だった古井がな。立派になったものだ」
「もう、あのときの私じゃないんです! 5年も経てば、私だって立派になりますよ!」
「そうだよな、それにますます、美人になった」
「え?」
「君を射止めた男はなかなかの選球眼を持っているな、うん。往年のスラッガーも選球眼がよかったから、あそこまでの活躍をだね・・・」
「なんですか、また野球で例えるんですね」
「好きなんだ」
その言葉は私を少しだけドキリとさせる。そういう意味じゃないことは分かっているけれど。
「・・・今日は、そんな報告をしにきたんです」
「そうか、ありがとう、古井」
「次に会う時には、見世になりますからね!」
「ああ・・・」
それからも、何度か会いに行った。
結婚式が終わったとき。妊娠が分かったとき。子供が生まれたとき。
「先生」「おお、古井か」「だから、『見世』になったんですって」「そうだったな。お前が高校生の時には・・・」
先生の中では私はずっと高校生のときのままなのだ。
けれども、人は変わっていく。大人になっても、ずっと変わり続ける。私だって、変わっていく。
「先生」「おお、古井か」
「・・・はい。お元気そうで」
「古井は、何かあったのか? お転婆娘が、めずらしい」
「私・・・見世じゃなくなっちゃった」
涙が込み上げてきた。先生は、いつもちゃんと私を見ていたのだ。
子供が生まれて、家庭に入って、私は働いていた頃の輝きを少しずつ失っていくのを感じていた。それでも、家族のためにと毎日頑張って。・・・浮気だった。君に魅力がなくなった、と言う夫は申し訳なさそうでもなかった。それでも最早、子供の幸せのために、親権を主張するべきなのかどうかも分からなかった。気が付いたら、先生のところへ足が向いていた。夫の転勤で東京を遠く離れていたから、まるで逃避行のようだった。
「私、どうしたらいいと思います?」
「どうしたんだろうな、高校生だった頃の、お転婆姫の古井なら・・・」
「え?」
「世の中を知って、変わっていくことも大切さ。けれども、あの時、自由だった心は、いまは、世の中というやつに流されて、水面から顔を出すこともできない。それは変わってしまったからなのか、あるいは溺れそうな心はまだそこにあるのか・・・どっちなんだろうね」
先生はゆったりと私を見つめていた。
私が瞳の中に忘れていった本当の自分を。