なかまくらのものがたり開拓日誌(since 2011)
1.におう街
その街でもっとも最初に逃げ出したのは犬であった。繋いでいた革紐を食いちぎって、或いは、食いちぎれない金属の鎖に絶望し他界した。研究所では確かにニオイの研究をしていたが、それはあくまで、「消臭」の研究であったはずだった。人が不快感を示さないニオイをつける「着臭」と、ニオイの分子を取り除く「消臭」。この研究所では「着臭」による「消臭」の研究がなされていた。
ある男が研究所を訪れる。男は紺色の合成皮の革靴を鳴らし、研究所を訪れる。来訪者を拒むゲートがガチャンと重苦しい音を立てロックを解除する。男の歩みが緩まることはない。開ききったゲートを通過すると、知ったる道を悠然と歩いていった。よく晴れた日のことであった。
研究室では、白衣を着た同志が作業をしており、昨晩から徹夜で用意された試験管がずらりと並んでいた。
「H1型からH28型まで、準備は整っています」白衣の男が言うと、紺色の革靴の男は黙ったまま頷いて、監視カメラをちらりとみた。そして、言った。
「人類は、世界圏を喪失する。これが再生の第一歩だ」
世界の再生。人類は250億人まで人口を増やしていた。積み重なった住宅が今にも崩れそうな都市。農場の地下に作られた地底都市。世界を周遊する海上都市。気球を組み合わせて作られた天空都市。ありとあらゆるところに人類は進出し、住居を獲得していた。
「それも、今日で終わるのだ・・・」白衣の同志たちが、試験管に革靴の男の持ってきた薬剤を順に入れていく。「H23型の試験管で劇的な反応が見られます!」
紺色の革靴は、”B_trust”のマーク。世界B政府を名乗るテロリスト集団は、世界の再生をうたっていた。
爆発は起こらなかった。静かに発生する煙が、地を這ってリノリウムの床に広がっていく。溶けだし床が仕上げたてのアルファルトの床のようなむっとしたニオイを、立ち上らせる。
溶けて穴の空いた床から、下の階へと煙が沈んでいく。
後にこの煙を調べた科学者によれば、この煙は触媒として物質の持つ本来のニオイを際だたせるように、物質を変化させる触媒としてはたらくことを突き止めた。この物質がどのような経緯・理論によって生み出されたのかについては、1000年が経過した現在でも不明であり、町中に広がったこの煙の除去は現在に至っても進んでいない。
この煙によって、街にはニオイが充満した。悪臭、汚臭。強すぎるニオイは、その種類によらず生物にとってストレスにしかならない。さらに、決まった約束事でニオイを利用してきた人間にとっては、もはやニオイを嗅いだだけで条件づけられた連想が始まり顔をしかめさせるに至っていた。たとえば、トイレの芳香剤のニオイなどである。
ニオイに追い立てられ、政府が一時避難を決意した頃、煙は追い打ちをかけた。「嘘のニオイ」である。書籍にはこう書かれていた。『そこにかかれた内容が事実であるかは、私には正しい判断ができない。なぜなら、私には嘘のニオイがもはや染み着いてしまっているようであるからだ』。人は信頼でもって、人の隣に立っている。人間であることへの信頼。同じ人種・信条であることへの信頼。それを作り出す社会への信頼。嘘のニオイがしたとすれば、ひとたまりもなかった。”B_trust”がそのニオイを流したのだろうか? 彼らの目的は達成されたのであろうか。少なくとも、1000年後の未来の私に今言えることは、その街は、無人となり、衛星軌道上から、その緑の大地とそこに暮らす野生動物の姿がみられる。ということだ。目に映る真実だけを語るならば、である。
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