なかまくらです。
「白銀の墟 玄の月 第四巻」 十二国記 読みました。
ネタバレ注意。
なんと18年ぶりの続きの刊行となった十二国記。
今作は、戴国の物語。
戴国は、戴王・驍宗が阿選の謀反によって、行方不明になっていた。
泰麒は、角を失い、最早王の気配を探すことはできず、どこにいるのかもわからないが、
生きていることだけはわかっていた。
そして、李斎らは、ひとつの可能性に行き当たる。驍宗様はそもそも函養山の中に閉じ込められている。
落盤によって出てこられないのだ・・・という結論に。
李斎らが、函養山を目指すころ、阿選もまた、ついに驍宗を弑し真に新王となるべくなのか、動き出す。
阿選は、泰麒という新しい対象を徹底的に潰すことにしたのだ。
そして、函養山の地底深くにいる驍宗は、誰が何のために流しているかわからない、
民が流した死者への供物(食べ物)によって生き永らえていた。
6年をかけ、坑内の行けるところにはすべて行ったが、地上につながっていると思われる穴は、
空洞のはるか高いところに点として見えるのみであった。
そんな驍宗についに機会が訪れる。坑内に妖魔を見つけたのだ。
妖魔を従わせることができれば、妖魔に乗って、その穴まで飛んでいくことだってできるのだ。
驍宗が巡り合ったのは、かつて捕らえ方を教わったことのある騶虞であった。
天意とは、天の意思。それが生きよというのか。驍宗は、慎重に罠を仕掛け、そして、ついに6年を越えて、
函養山から脱出に成功したのだった。
王の命を受けた軍が函養山へと向かう途中、土匪の朽桟らの街があった。朽桟らは縄張りである函養山を守るために、
また、自分たちの面子のために例え、敵わないと分かっていても抵抗しないわけにはいかなかった。
女子供を逃がす時間を作り、そして自分たちも撤退する。
しかし、6年前、驍宗を罠にはめた烏衡らは、手ぬるい軍のやり方にいら立ち、
逃げていく女子供を虐殺する。そこに、白髪に赤い目の武人がいた。
烏衡はそれが、殺したはずの驍宗であると気づいたが、
李斎や霜元らが駆け付けたことにより、逃げかえるしかなかった。
李斎らは、驍宗についに出会うことができた。しかし、国では既に新王・阿選の報がでており、
さらに、驍宗はひどく衰弱していたため、身を隠しながら移動するしかなかった。
一度、戴を離れ、隣国に王として援軍を頼むこと。それが、彼らが王宮にいる阿選率いる王の軍に勝つ方法だった。
・・・しかし、一行は州候の軍に発見され、驍宗はとらえられてしまう。
そこからは、悲惨だった。李斎らは、援軍がたどり着くことに望みを託し、
州候の軍から王の軍に驍宗が引き渡されることを遅らせるべく、無謀な特攻を繰り返すのだった。
次々とこれまで驍宗を探す中で、出会った仲間が死んだり、行方不明になったりしていくのだ。
それでも、驍宗は阿選にとらえられ、ついに、民衆の前に晒されることが発表されるのだった。
驍宗は、偽の王として、国を大いに困窮に陥れたというのだ。そして、暴徒によって、驍宗は殺される。
そんなシナリオだった。
最早、助けることはできない・・・。
そう感じた李斎らは、せめて、主である驍宗を自分たちの手で、と考える。
その壇上で、泰麒は、隠し通してきた麒麟としてあるまじき秘密を武器に戦いを決行する。
麒麟は、争いを何よりも嫌い、血を嫌う仁徳の生き物であるにも関わらず、泰麒は剣を振るい、
兵士を払ったのだ。
驍宗の元へと駆け付けた泰麒は、転変する。6年前、阿選に切られた泰麒の角はいつの頃からか、癒えていたのだ。
麒麟が頭を下げる相手は、王のみである。
民衆は誰が真の王であるか知る。
阿選の軍は、民衆もろとも、場にいるすべてのものを殺してしまおうとするが、
行方不明だった英章らも駆け付け、その場を逃れることに成功するのだった。
李斎は、帰ってくるものの顔を見て、声をかけていた。その中に、行方の分からなくなっている人物が多くあった。
驍宗と泰麒は、延王と延麒に会い、援助を求める。
そして、数か月後、阿選は討たれた。
・・・あまりにも犠牲が多かったです。いろんな民が頑張ろうとしていて、希望を持ったものから死んでいく。
正しいことをしたらいけないのか。李斎に協力し、驍宗を見つけるためにこの、4巻を通して出会った仲間が次々と死んでいってしまって、感覚が麻痺してしまいそうでした。せめて項梁と去思が生き残ったことを幸いとするしかないのかな。あと、もちろん、泰麒と驍宗も。項梁が「生き残った者の数を数えるんだ、こういう時は」と言っていますが、そんな簡単に割り切れたりしないものです。特に、繰り返される特攻がしんどかった・・・。飛燕まで連れていくことないのに・・・。
さて。全体を通して、物語としてはよくできていたのですが、なんだろう、どうしたらいいのかわからない気持ちが残ったのも事実です。正直なところ、十二国記という物語の中で、もっとも私の興味が湧かなかったのが、この戴国の物語だったのでした。「風の万里 迷宮の岸」で泰麒が驍宗を選んだときにも、「黄昏の岸 暁の天」で、泰麒を救い出し、世界の理について話していた時も、なぜでしょう。面白いけれど、理を詰める面白さであって、そういう面白さもあっていいのですが、その上で、どう生きるか、どうあるべきかを物語で直面する困難とそこにおける理をもって教えてくれたあの感動が忘れられないのです。けれども、ここまで読んできて、彼らの物語はまだ途中なんだと、これからが大変なんだとそう思ったことが一つ。それから、この物語が、泰麒と驍宗を中心に据えて、二人の奮闘の物語とせず、李斎だったり、民だったり、阿選だったりを描いた物語でよかったということが一つ。
前半二巻は、驍宗という王が何故うまくいかなかったのかについて描かれていたのに対して、後半二巻は、凡人たちについて描かれていたように思います。表紙もそうなってますし。
驍宗はやっぱり恐ろしいほどの傑物で、泰麒もまた、この物語を通して、その完全に傑物になってしまいました。そういう人たちは、やっぱり、一人で何でもできてしまうんでしょう。洞窟からも一人で脱出できてしまうし、意志の力で天の理に抵抗してしまう。けれども、「天に生かされている」のは変わらないし、それを強く感じるのは、凡人である私たちなのではないかと。あるいは阿選のように誰かと比べることで道を踏み外してしまうことだってある。李斎のように、真っ直ぐであれば、周りの人に助けられることだってある。そういう凡人たちの物語なのではないかと思うのでした。
だからこそ、土匪に襲われる里を見て見ぬふりをしようとしたことがきっかけで多くの犠牲を出してしまったりする。結果論なのでしょうが、あそこで、一緒に戦っていたら、そのまま大円団だってあったかもしれない。それくらい、天・・・なのかわからないけれども、その何かは私たちの行いを見ているように思います。何かの宗教、と言いたいわけでもないのですが。
最後、凡人の阿選はどんなに策を弄しても、結局は討たれてしまうわけですが、妙に悲しいような気がする。最後の黒幕の器じゃないよ、阿選、あなたは。物語を通して、ずっと最後まで、結局驍宗は最後に死んでしまって、李斎が王になるんじゃないかって、そういう展開を疑い続けるくらい、李斎の視点で読んできた私ももれなく凡人で、何を受け止めたらいいんだろう、という気持ちのまま、仲間が帰ってこない悲しみを受け止めるラストへと向かっていったのだろうな、と思うのでした。
ひとつだけ欲を言えば、この感情を、言葉で教えてほしかったといったところですかね。
こんなに夢中になって本が読めたのは久しぶりでした。18年ぶりの新刊、ありがとうございました。