なかまくらです。
劇団群青復活第3回公演『ゴドーは待たれながら』 観ました。
作・いとうせいこう 演出・三村友理 出演・藤田徹
@東広島芸術文化ホールくらら
「ゴドーを待ちながら」といえば、サミュエル・ベケットの傑作・・・
と言っても、ほとんどの人はおそらくどんな話かは知らなくて、
とにかく、ゴドーを待ち続ける男たちがいるが、結局最後までゴドーは現れない
という、それくらいのあらすじしか知らないのではないでしょうか?
そして、「ゴドーは待たれながら」。
その、待たれているゴドーのことを描いているのです。
1幕だけは、インターネットに訳編があり、それをさらっと読んでおいてありました。
その紹介をすると、
2人の老人がゴドーを待ちながら、他愛のない話をしているのですが、
何せ老人なので、目的をすぐに忘れたり、待ち合わせの目印の樹に首を括って
自殺しようとするくらい。
あとは、老いた召使を首にしようとしている老いた主人と、
お使いを頼まれた子供がちらりと出てくるくらい。
*
さて、それを踏まえての観劇。
2時間のお芝居ですが、ストーリーのようなストーリーはないので、
あらすじは割愛。
1幕は、
靴が脱げない老人との対比で、靴が履けないゴドーの苦悩からのスタート。
他人を待たせていることで優越感を持っているつもりなのに、
気が付いたら、待たせているという拘束感を感じている。
自由でいるはずなのに、自由になれない。
行く行かないの自由がないのだ。
しかし、右足の靴を履けず、家を出ていけないゴドーは、
待っている人間が、どうしたら、自分を好意的に出迎えてくれるか、
ということばかりを考える。
淡い期待を繰り返しては、自分を奮い立たせるが、
気持ちとは裏腹に、最後の一歩の象徴たる、右足の靴がどうしても履けなくて、
出掛けられないのだ。
2幕。
神様の孤独について考えるところからスタート。
神様なる存在がいたとして、その存在は、宇宙の外にいるはずで、
誰かに見られることもなく、いる。それは、バカなんじゃないか・・・と
ゴドーはそう感じる。
小さなことを大騒ぎにする様子は、他人とうまく関係を気づけない人の特徴、
象徴のような行動だと感じました。
胎児が母の腹の中で手術をして母を助けようとする妄想。
崩れそうな生活や、安心できる部屋を守ろうとする。この場所は安心できるが、
「起きろー! 目を覚ませー! お前は眠り込んでいるんだぞ!」
気持ちは、この場所を出ていこうとするのだ。
ところが、身体は、ついには椅子から立ち上がることもできなくなる。
そして、自分のことをバカなんじゃないかって、そういうところでお芝居は終わる。
**
ゴドーを待つ2人の老人は、ゴドーに何か大きな期待をしているわけです。
じゃあ、そのゴドーはどんな人物なんだというと、
ゴドーは、そんなに期待をされるような人物ではないんだという、
そういう話だったように思います。
あいつさえ来てくれれば、というその人物はどんな思いなんだろう。
孤独なのではないか。勝手な期待なのではないか。
待たれている男も自分ひとりの力では、何かを変えることが出来ない。
幻想かもしれない少年が来るのを待っている。何かが起こるのを待っている。
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さて、
日本全国から懐かしい演劇団時代の仲間たちが集まって参りまして、
随分と楽しい時間が過ごせました。
出演した藤田くんは、まあ、よくぞ、2時間、ひとりで舞台上を駆け回りました^^!
三村さんも社会人として働きながら、ここまで作り上げたことに拍手ですし、
舞台監督の和俊くんも、あんたさんどこにいたのさ!笑
え、何、舞台だけ建てに来たの?笑
という感じで、すごく懐かしいメンバーの活躍に、元気とエネルギーを貰いました。
お疲れ様でした。
またね。